先週末、
急遽飛行機を予約し、 文字通りとんぼ返りでお別れをしてきました。
今帰りの便で空を飛んでいるのですが、少し時間があるのと、 今の気持ちを書き残しておこうと思い、 機内モードでスマホを起動させました。
この先、直接的な表現は避けるものの、病気についての描写があります。苦手な方、避けたい方は、 ここでお戻りください。
連絡
夕方帰ると妹から電話とLINEがはいっていて、 この段階で嫌な予感はしました。
他界の知らせ。
末期のがんに罹っており、 桜は見れないだろうとは言われてはいたんですよね。膵臓がんです。
今92歳で、3月で93歳になります。そこまでどうだろうか… と皆で話ていたものの、1週間ほど前に食事が喉を通らなくなり、 点滴に切り替えたと言われ、、、
そこで僕としては心構えはできていました。もう年も年ですしね。
急遽飛行機を予約し、ホテルとレンタカーを取り、 向かう準備をしました。
帰省と対面
日の出とともにで家を出て、羽田から福岡へ。そこからレンタカーで走って斎場に向かい、 おばあちゃんと対面しました。
もともと少しふっくらしていた人だったんですが、 病で少し痩せているのを見たのが、丁度3ヶ月前。
告知を受けたので、顔を見せに帰っておいでと言われて、 家族3人で出向いていたんですね(本当に帰っていてよかった)。
その時と比べて、更に痩せていて、 まるで眠っているような顔をしていました。
痛み止めも打っていた事もあるんでしょうが、痛い痛いと訴える事は殆どなか ったようで、何かこう胸がつかえるとか、気だるい感じとか、 そういう症状だったようです。
ある意味良かったのかもしれません。
私とおばあちゃんとの思い出
おばあちゃんは四人姉妹を生みました。
またお母さんのおねえさん方が生む孫も、 どういうわけか女の子ばかり。
そんな中で私が生まれたことを、 おじいちゃんとおばあちゃんは本当に喜んでくれたそうです。
そして自分のすぐあとに妹が生まれ、年子という事もあり世話が大 変なため、 おじいちゃんとおばあちゃんに良く面倒を見てもらいました。
一番残っている記憶は、おばあちゃんの膝の上に乗って、 じいちゃんが運転する軽トラで農作物の市場に行っていたことでし た。(まだチャィルドシートが義務化される前の話です)
何回も何回も行きました。
ちょうど市場の真横が踏切で、 電車が通ると僕がとても喜んでいたようで、おばあちゃんが
「 そらきたよ、よかったね〜」
あと小さい時に一緒にお風呂に入って、 耳と首の後が汚れていると、 ゴシゴシ石鹸付きのタオルでこすられていました。
最近あんまり、あんなにゴシゴシ洗ってないかもしれません。 帰ったら洗おう。
おばあちゃんの味
また僕は甘党なんですが、 おばあちゃんがよく作ってくれたよもぎ餅やおはぎが大好きだった からです。
僕が喜ぶからと、本当によく作ってくれました。
ある日あまりにも作ってほしくて、 近所に生えているよもぎを片っ端から抜いて持っていったことがあ り、
「こっちの葉は硬かし渋かよ、もっと若か葉を使わんば」
と教えてもらいながら、選別してくれた事を思い出されます。
僕の大好物の白和え、ほうれん草の胡麻和え。これらは大学生の頃に帰省するときは、必ず食卓に出ていました。
後者は自分も時々作れるようになりました。でも、あんなに美味しくできないのが不思議です。 ほうれん草の鮮度なのか、砂糖なのか、それとも他のなにかか。。
とにかく怒られた記憶がないです。
優しく、可愛らしく、戦時中の女学校も出ていたので、 とても頭の回転の早い、そんなおばあちゃんでした。
まるで今日の温かい日差しのように。
まとめ
バタバタした帰省になりましたが、お通夜と葬儀と、 時間を掛けてお見送りができて良かったです。
二十歳過ぎてから、葬儀に参列するのは本当にひさしぶり。 しかも遺族になるのは初めてで、慣れない事ばかりでした。
大切な事を教えてもらったと思っています。
またじいちゃんはまだ健在で、 どんな気持ちだろうと思っていたんですね。
もちろん悲しいのでしょうが、あまりそんな様子を見せず。 しなやかに受け止めているような印象でした。
強い人だなと思いました。
じいちゃんから帰り際、
「コロナが落ち着いたら、またおいで」
と言われたので、なるべく早く、また帰省したいです。
以上です。
追伸
…ほんの少しだけ、佐賀の街を走ることができ、 とても素晴らしい経験ができました。
それはまた別の記事にしたためたいと思います。
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