なんでもいい・どっちでもいいという自由さとバイクの楽しみ

自分の今の考え方は、

「なんでもいい」「どっちでもいい」

という感覚が根底に有ります。

コレにたどり着くまで結構時間がかかりました。

 

 

自分が主催しているMORNING RIDEなんか特にそう。この手のイベントって主催者の色が濃く出ると言われたりするんですが、集まるバイクなんてめちゃめちゃノージャンルです。1930年代の車両が来たかと思えば、70年代の国内外の旧車がずらりと並び、現行の最新バイクが並んだりする。

「コダワリないの?」って聞かれたら、「無いです!」って笑顔で返すと思います。このごちゃまぜな感じが、今はとても楽しく感じています。

 

 

じゃあ何故こんな考えに至ったのか、ということを一回記事にしておきたいと思います。

自分のバイクに対する向き合い方の歴史、みたいな感じですね。

 

一言でまとめると、

「極から極へ振り、居心地のいい場所を見つけた」

という言葉になるかなぁと思います。

 

 

バイクに乗り始めた頃の話

自分がバイクに乗り始めた頃は、「アメリカンしか乗らない」みたいなことを吹聴するような人間でした。今とぜんぜん違います。

この考えの根っこを正直に掘り下げてみると、スポーツライドがあまり上手ではない(今でもそう思っています)ので、スポーティーにバイクを走らせることから逃げたかったんです。だから、スポーツ走行しなくても良い免罪符になる、アメリカンというジャンルで予防線を張っていた、というのが正直なところです。

あと単純にルックスが大好きでした。自分の乗ってきたバイク遍歴を見れば分かるように見事にアメリカン続きです。特に外装をプラモデル的にカスタムしていけるというのがとても楽しかったです。

 

あとジャンル分けが大好きでした。

ネイキッドにオフロード、ツアラーにアメリカン。そしてアメリカンバイク(クルーザー)にしても、

  • チョッパー
  • ドラッガー
  • ボバー
  • バガー

なんていう色んな細分化が出来ますよね。結構線引が微妙なラインだったりするものも多数あると思うんですが、自分なりに千疋をしていた気がします。そうして作った枠組みに対して、車両をどのジャンルになるか?当てはめる事を楽しんでいました。

「あれはこのジャンル」「コレはコッチかなぁ」

という感じで。

 

ジャンル分けの意義

何故このようなことをしていたかというと、当時の感覚を手繰り寄せるに、純化をしたかったんじゃないかと思います。

一つのことを極めるという行為に美しさを感じるというか。求道的というか。それを格好いいと感じていたんだと思います。美しいという表現が一番しっくりくるかもしれない。

自分の中で好きなものを純化して行く際に、いらないものを削ぎ落とすためにフィルターをかける。そのフィルターが「カテゴリー分け」だったのかなと感じています。

その時に僕が行き着きたかったゴールは、ハーレーのソフテイルみたいなバイクだったと思います。わりかしスタンダードだけど、何かちょっとした部分でオリジナリティを出そう、他人と違う部分を表現しようと、もがいていました。

そしてその基準で他者と比較していたんですね。いわば自分の基準を「鎧」・「殻」にして、他人からの攻撃に対して自分を守ろうとしていたんだと思います。

 

 

純化の先にあった閉塞

で、この純化して突き詰める行為の先にあったものは何かというと、かなりきつめの閉塞感でした。

先に「僕が目指すバイク像」みたいなのを築き上げたまでは良かった。ただその着地点に向かって進んでいくにつけて、どうにも後にも煮詰まってしまったんです。どうすればいいかわからない。本当にコレでいいか不安。

今思えば情報量が少なすぎたんですね。

ターゲットは決まったものの、表面の上っ面だけを追い求めていくから、魂がこもっていないというか。所詮バイクに乗り始めて数年の大学生の脳内で、想像できるレベルなんてたかが知れてますよ。今の自分でもたかが知れてると思うのに。

 

なので、ずーっと変な居心地の悪さみたいなのを覚えていました。

  • 目指すべきゴールってコッチじゃないんじゃね?
  • 頑なにならなくても良くない?

みたいな感覚がありました。ただ一度ゴールを設定してしまった手前、それを壊すのはとてつもなく恥ずかしく、かっこ悪い行為だと思っていたんです。だからどこかしら無理をしながら、ゴール目指してもがいていました。

 

 

自己破壊とブレイクスルー

結構大げさな表題ですが、自分にとってはこのくらいのインパクトが有りました。

やったことは、「友達のバイクに積極的に乗ってみる」ということ。それだけ。

コレはホント乗らせてもらった友だちに感謝しています。

 

最初のきっかけになったのは、KSR-2でした。カワサキの2st 80ccの小型スポーツバイク。

2stなんて乗れるのか不安で、壊さないか色々質問したのを覚えています。

で乗ってみたらコレが楽しいのね。小さくて軽いのにパンチが効いた加速して、なんてこと無い山道を右に左にアクセルON/OFFしながら走っているだけなのに、たまらなく楽しい。うわーバイクってこういう楽しみ方が有るんだと、その時初めて感じました。

 

その後乗ったのが、CB400SFと、FTR223

これも普通のバイクなんですが、試乗させてもらった際、

  • 「あれ、自分もスポーツバイク乗れる」
  • 「というよりコッチのほうが乗りやすいんじゃない?」

という感覚を鮮明に覚えています。今まで「アメリカンは乗りやすいけど、この手の車両は乗りづらい」と勝手に決めつけていたんです。

 

 

その後もスクーターとかオフロードとか、色んなバイクに乗せてもらいました。

大学の友達から会社の同期、ほんと色んな人たちの車両を借りさせていただいたんですね。そうすることで、自分の決めつけの殻がバリバリと割れていきました。

  • スクーターは荷物を乗せられて便利で、出だしは極めて速い事。
  • オフロードバイクに乗って、フロントサスが沈み込んで曲がる感覚を初めて認識できたこと。
  • 自分はずーっとバイクに後ろ荷重で乗る癖が付いてしまっていること。
  • バイクでのどろんこ遊びはあまり楽しく感じられなかったこと(コレは向き不向きとか、コンディションも有ると思う)

殻が破れて、いろんな価値観に一気に触れることが出来ました。

そしてバイク一つに対して、いろんな視点を持てる様になったんです。

 

 

視点が増えて見えてきたもの

バイクに対して、今まではアメリカンというジャンル特有の視点で見ていました。

例えば、

  • 鼓動感とか
  • ロー&ロングのルックスとか
  • 各部の装飾的な意匠とか

 

そういった独自のテイスト的なものしか目がいっていなかったんです。ですが一度自己破壊して視点が増えてからと言うもの、バイクに対していろんな目線を持てるようになってきたんです。

 

例えば

  • 軽さ
  • 取り回しのしやすさ
  • 馬力とかトルクの太さとか
  • サスペンションが動くこと
  • それらが組み合わさって日常での扱いやすさにどう反映されるか
  • トータルで見て格好いいのか

色んな目線でバイクを見られるようになりました。今までの目線も組み合わせられるようになりました。

 

 

掴んだ物

そうやってバイクを眺め、感じた事を何度も反芻する。

そうすると、「本質」というとおこがましいんですが、いろんな目線の中で自分が一番大切にしたいもの、いわば価値観が明確にあぶり出されてきました。

  • 古今東西新旧問わず、バイクはいろいろな個性を持っている
  • だからいろんな価値観を感じられたほうが面白い
  • その人その人の環境に応じて、最適なバイクが存在する

このような価値観が僕の中に芽生えました。

これが僕の土台になっています。ここでは「ノージャンル思想」って呼ぶことにします。

 

いやいやこんな考え方違うだろっ!という人もいるでしょう。いても全然問題ないです。

むしろ考え方は人それぞれなので、違って当然のはずです。あくまでも自分なりの基準であって、それを他人に強制することは一切ありません。

 

 

あと勘違いしやすいのは、好き嫌いは有っていいということです。

僕もバイクの中に好みじゃない、と言うより嫌いに近いジャンルはあります。感情であり、博愛思想ではないので好き嫌いは有っていいと思っています。ただそのジャンルを愛している人が居て、一生懸命活動しているという事実があるならば、絶対に否定出来ないよね、という感覚です。理解はするけど共感するかは別問題と言うか。

そういった割り切りもできるようになりました。

 

 

ノージャンル思想になってからの自分

ノージャンル思想になってから、心境にだいぶ変化が出来ました。

 

何より楽ですね。心持ちが楽。着飾らないので居心地がいいです。

色々人と比較しなくなり、比べるとしても自分と優劣をつけるではなく、「いいところ」や「面白い所」を積極的に見るようになったため、気持ち的にとても楽です。

比較して排斥って言う、極めて非生産的な気持ちが消えました。

さっき述べた様な「割り切り」の感覚が身についたことも大きいと思います。

 

化学反応

またジャンル違い・畑違いのものがごちゃまぜになるので、化学反応が生まれる事が多くなりました。

例えば古いバイクを見てから新しいバイクを見ると、

「あぁこの機構ってこんなふうに進化したんだなぁ」

とその場で現物比較しながら見ることだって出来ます。技術の進歩を現物体験できるわけです。これもノージャンル化で視点が増えて、色んなバイクに目を向けるようになったからこそ見えてくることですよね。

 

自由な発想

あとは「こうしなきゃ」っていう縛りすらもなくなるので、発想が自由になりました。

朝だけツーリングを企画したり、子育て世代をツーリングに引っ張り出すことに成功したり。まだまだいろんなことができると思います。視点と視野広げて自由になることで、思いもつかなかった組み合わせの概念が生まれるだろうと思うんです。

 

例えば医療・健康とバイクとか、子供の情操教育とバイクとか。最近流行りのサーフィン☓バイクみたいな、何か別のスポーツと組み合わせたりとか。読書&バイクとかも面白そう。

こんなことをずーっと考えるようになりました。

 

 

ココまでに至ったプロセスを整理するに

  1. 一度ある極に純化しようとして、殻に閉じこもるという経験をする。
  2. その殻を自己破壊し、一気に心開いて他の色んな極に飛ぶ。
  3. それぞれの極で感じたものを自分の中で考えて、自分なりの基準を作る
  4. その基準ができてしまえば、他から攻撃されても揺るがない
  5. 自分の場合「ノージャンル」という思想・基準だったので、色んな組み合わせを楽しめるようになった

こういった流れになります。

極にこもっていた現状を破壊し、色んな極に飛び、その中で居心地の良い立ち位置を見つける。

19歳でマグナ50に乗り始めてから、10年以上かけて上記のサイクルを回すことが出来ました。

 

 

まとめ

相当長い文章になりましたが、今の自分の気持ちを書き出すことが出来ました。

 

今後は視座を増やしていきたいと思っています。

視点と視座という考え方があり、視点は、「あるポイントからどこを見るか」、ということ。翻って視座は「どのポイントからそれを見るか」ということですね。

 

 

これは実体験が有りまして、今年引っ越しをしたんです。

それまで比較的閑静な住宅街に住んでいたんですが、今住んでいるところは比較的交通量が多い通りに面した場所です。バイクもたくさん通るんですが、まぁうるさいのが多い。自分はバイク乗りだから音に対してはだいぶ耐性があると思うんですが、それでもうるさく感じる事が多いんです。そして子供が寝ている時に重低音な車両が通ると、起きないかとヒヤヒヤします。

今まで偏った視座でしかバイクを見ていなかったなぁと反省しました。通り沿いの人はこんなにうるさいのね、と。

 

 

こういった形で、もっともっと色んな視座で見れるようになって、バイクを社会に対してより良いもの、楽しいものにしていけたらなと思っています。具体的にどうすればいいかとか、正直わからないことも多々あるのですが、動きながら色々考えて働きかけていけるようになりたいです。

 

以上です。

 

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